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秋野豊さんと「ラ・ソンブラ」
2003-10-14
秋野豊さんを、覚えていらっしゃるでしょうか。
秋野さんは、スラブ・ユーラシアを専門領域とする国際政治学者で、
1998年7月20日、タジキスタン共和国で殺された、そう「あの方」です。
柔道、ラグビー、ウェートリフティングなどで鍛え上げた秋野さんの肉体は、
尋常のものではありませんでした。学者でありながら、スポーツマン。
いや、その本質には、ジャーナリストの天性が息づいていたように思えます。
というのも、秋野さんは、自分で調べ、自分の頭で組み立てたこと以外語らず、
それだけに、自らの足と目とで、現地調査に力を注ぎました。
それが可能だったのも、並み外れた行動力があったからだと思います。
秋野さんは、ペレストロイカ前夜のモスクワに赴任して以来、
危険を省みず、単独で旧ソ連周辺地域を歩き回っていました。
それもたぶん、激変する世界史の現場感覚に魅了されたからでしょう。
19991年にソ連からの独立を果たしたタジキスタンでは、
旧共産党系政府と、イスラム系野党の間で、内戦状態が続いていました。
そんななか外務省は、現地に専門家を派遣することを切望していました。
そこで外務省は、数多くの専門家に現地調査の仕事を持ちかけますが、
危険な仕事だっただけに、ことごとく断れます。
しかし日本では数少ない中央アジア研究の第一人者だった彼は、
密かに死を覚悟して、現地に赴いたといいます。
というのも、タジキスタンで停戦合意が成立したとはいえ、
それに従わない過激な反政府武装勢力もいましたし、
また内戦状態を利用して、麻薬密輸を行っている無法集団もいたからです。
秋野さんは、たえず危険な地帯に身をさらしながらも、
気軽に住民の家に立ち寄っては、「不自由はないか」と聞いて回り、
柔道で身につけた骨接ぎやマッサージ術を用いて、
老人の腰痛や子どもの骨折を治療してあげたといいます。
そんな優しい秋野さんが、実はリヒト珈琲を、とても愛していたのです。
危険な現地に出かけるとき、決まってたくさんの珈琲を持参していきました。
実際、ぼくも何度かリヒト珈琲で、秋野さんと顔を合わせました。
それだけに、秋野さんの訃報の接したとき、ひどく動揺してしまいました。
殺される直前に、秋野さんが家族に送ってきたメールがあります。
そしてそのメールの言葉が、「ラ・ソンブラ」のメッセージとして紹介されています。
「私はいま、紛争に引き裂かれたタジキスタンにいる。
幸運にも私は、100グラム入りのリヒト珈琲『ラ・ソンブラ』の袋を、
旅行カバンの底から見つけた…」と。
『ラ・ソンブラ』の袋から、わずかな珈琲豆を見つけ出した秋野さんは、
それをペンチでゆっくりつぶして、リヒトの香りと味わいを楽しんだそうです。
そして、それからまもなくして、ゲリラに射殺されてしまいました。
その後、アフガンはアメリカに攻撃され、さらにイラク戦争…。
もし秋野さんが元気だったとしたら、どんなコメントを語られたことでしょう。
「ラ・ソンブラ」が、「秋野さんの影」のごとく、いまやぼくには思えます。
秋野さんは、いったいどんな光を受け、どんな影を歴史に遺したのでしょうか。
(秋野さんのことは限られたスペースでは書き尽くせません。また、そのうちに…)
inada@creative.co.jp
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