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ガン!その愛の進化とスピリット

2009-05-08

〜〜〜〜存在論的魂の医療進化論へ
・・・・・稲田陽子
    (連載を始めます。不定期のマイペース散歩型です〈笑い〉どうぞよろしくお願いいたします)

連載その1

プロローグ

 まずは、当時まだ二十歳の大学生の私が出会った大好きなワーズワースの詩「オード、幼年時代の回想から不滅性についての暗示」(岡三郎訳)の話から始めよう。
 この詩は、当時すでに懐かしの映画になっていたナタリーウッド主演の「草原の輝き」で一躍一般にも知られるようになったもので、とても長い詩である。その中で、とくに有名な詩句といえば、何と言っても、以下の下りだろう。

Though nothing can bring back the hour
Of splendor in the grass, of glory in the flower;
we will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;

草原の輝き 花の栄光 
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし〈訳者不明〉」
(拙文では、田部重治訳に従っている)

 この部分は、映画同様にこの詩でも、重要かつ感動的なクライマックスになっている。

 むろん、詩と映画の内容は別物で、このワーズワースの詩は、作者自身が、天上の記憶をまるで前世のようにおぼろげに残している幼少期のわが姿を回想し、困難や苦悩に遭遇した人生行路の道すがら、自然界を通してその記憶を取り戻してゆく積極的な歓喜の歌となっている。 

 私が学んだ英米文学科の岡三郎教授の授業では、先生の「凝視と夢想」というワーズワーズ論を読み、いま思えば人生経験はまだ浅かったものの内心では「ちょっとした大人」だと自負していた私に大きな共感と同時に未知なるものへのロマンチックなある揺さぶりを与えるものだった。それは、長編叙事詩「序曲」を始めとするワーズワースの詩がただ自然の美しさを詠んでいるだけでなく、そこには大いなるものへの詩的で哲学的な回帰があり、当時関心があった「悟り」の意味についても確かな示唆を感じさせたからである。

 岡三郎氏の「凝視と夢想 ワーズワース論」を通して、ワーズワーズの同時代人には難解で理解しがたかったという啓示的な瞑想詩「オード」も、先生の優れた洞察の光を得た「存在論的な哲学詩」となって、当時の私の胸に飛び込んできたのだった。

 以来、ワーズワースは長く私の記憶の奥に残ることになった。そして、ときに忘れられることはあっても、いつも自然は、私の心のどこかに静かに住み続け、それ以前にもまして決して切り離されることのないものとなった。

 大自然は、いまも、唄い続けているのである。

 さらば唄え、小鳥よ、歓喜の歌を。
 鼓の調べにつれてのよう。
 子羊をして踊らしめよ。
 われらも心において汝らの群れに加わらん。
 笛吹くものよ、戯るるものよ、
 今日、五月のよろこびを
 全心に感ずるものよ、
 かつて輝かりしもの、
 今やわが眼より永えに消え失せたりとも、
 はた、草には光輝、花には栄光ある
 時代を取り戻すこと能わずとても何かせん。
 われらは悲しまず、寧ろ、
 後に残れるものに力を見出さん。
 今迄あり、将来もあるべき
 本能的同情のうちに、
 人間の苦しみより迸り出ずる
 人の心の和らぐ思いのうちに、
 死を通じて永遠を見る信仰のうちに、
 賢明なる心をもたらす年月のうちにそれを見ん。
 (Ode:Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood X by William Wordsworth
 〈 田部重治訳〉より)


 さて、北国の5月は、冬の厳しい寒さを乗り越えた春の息吹が一面にみなぎり、新しい陽射しの女神の祝福を受けながら、草が萌え木々が次々と芽吹いてゆく。そうしたいのちが再び巡る季節、桜の花の蕾みが待ち構えているかのようにふくらむや、一夜にして一気に開花する。裏の自然公園の桜もすでに満開である。

 ありとあらゆる木々も、真新しい黄緑色の小さな葉が世界への好奇心で胸を踊らせ、いのちの気を迸り出している。

 その新緑が芽吹き出したある日の午後、私は、一人の不思議な旅人に出くわした。とても年老いているようにも見えるのに、また逆に非常に若々しい生気に満ちあふれ、芽吹いたばかりの木々の側で、どこを見るともなくその静寂を愉しむように微笑んでいる。

 どれくらいの時が流れたのかわからない。旅人は、何も語らず、静かに木々を巡り、その美しい新緑の風の中に姿を隠した。

 そうして、私は、眼を開けるのである。それは、永劫に続かないが光輝を放つひとときであった。
 
5月の風が、唄い出す。

 「かつて輝かりしもの、
 今やわが眼より永えに消え失せたりとも、
 はた、草には光輝、花には栄光ある
 時代を取り戻すこと能わずとても何かせん。
 われらは悲しまず、寧ろ、
 後に残れるものに力を見出さん。
 今迄あり、将来もあるべき
 幼き日々の原初的共感のうちに」
 (注/In the primary sympathyは稲田陽子訳)


 私は、思わず感得する。幻影の旅人は、宇宙悠久のエネルギーの具象であるに違いない。それは、詩人ワーズワースが常に求めてやまなかったある大いなる一者との融合あるいは、プラトン的前世である天上の記憶の内側にある「内なる愛と平和そのもの」であった。

 これをあえて東洋的に言えば、ニルバーナの世界にも似ており、あるいは、最近出たばかりの書籍「タオコード」の陰陽合一の宇宙の悟りと喜びのエネルギーの世界にも相似している。

 思えば、私たちの存在は、すでに肉体を超えているものなのかもしれない。環境破壊や気候変動が進み、荒廃した物質社会に囲まれながらも、かろうじて、瑞々しい自然が私たちのまわりに生き残り、その清らかな精気が私たちにその存在の意味を必死で教えようとしていることに、いったいどれほどの人々が気づいていることだろう。

 地球の唯物化を進化と取り違え、現代の人々は、まさにタイタニックの船上にあるようだ。マクロの世界では、地球規模の環境汚染や温暖化、戦争そして経済の世界的な破綻が起き、一方ミクロの世界では、人々の心の荒廃が進み、身も心も病との距離を縮めつつある。

 そんななか、ガンも、例外ではなく、むしろ現代医療との複雑な絡みで代表的な現代の難病となってしまった。それは、なぜなのか。タイタニックに乗ってしまった私たち現代人には、すんなりとその現実を把握するのが困難な状況にあるのかもしれない。

 ガンがいつからテロリストと見なされ、敵として攻撃され続けてきたのだろうか。最前線のガン医療は、ガンを単なる物質としか捉えられないのに、最も優れた治療法を提供していると錯覚されている。その治療攻撃の果てに、あるいはガン細胞のサバイバルパニックを招いたり、あるいは正常細胞までもがガン化のプロセスをたどるなど、そのためにどれほどの人々が犠牲を強いられてきたのだろうか。

 もしも、ガン細胞に言葉を話させたら、何と言うことだろう。おそらく、こう嘆くに違いない。

 「私は、自然界の一部。
 みんなが恐れるような者ではありません。
 汚れた血液が全身を覆い尽くさないように、
 私が必死で食い止めるために
 細胞に炎症を起こしているだけなのです。
 血液がきれいになったら、
 自然に周囲の細胞に融合するか、
 膿みとなって消えていきます。
 私は、テロリストなどではありません。
 気づいてください。
 これ以上、私に放射線攻撃、抗ガン剤攻撃、
 不必要な手術なんかしないでください。
 私を自然の一部として、じっと優しく見守っていて
 くださるだけで、それだけで、私は、
 自分の役目をちゃんと果たせるのです
 私は、病んだからだの、病んだたましいの守り主。
 そして、あなたが生き延びるための
 悠久の自然界のルール、愛そのもの」

つづく


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