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なぜ『自己責任論』があんなに広まったのか?

2004-06-03

【論考】「どうして『自己責任論』があんなに広まったのか?」
( chance-forum)

http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/845.html
投稿者 尾張マン 日時 2004 年 6 月 03 日 05:43:29:YdVVrdzAJeHXM

http://www.freeml.com/message/chance-forum@freeml.com/0018951


【論考】園良太「どうして『自己責任論』があんなに広まったのか?」


やま、です。友人で、フリーペーパー『SYNAPSE』編集人でもある、園良太くんが、CHANCE!pono2のMLに投稿した文章です。

嵐がさって、多くの人々が人質の命をみすてることにしかならない「自己責任論」におどらされてしまったという事実がのこりました。


しかし、なぜそれほどまでに「自己責任論」が力をもったのか。
その「土壌」を突きとめないかぎり、同じようなことはいくらでも繰り返されます


この事件の全貌と
そこに映し出された「現代社会」の虚像と実像を
ねばりづよく解き明かしていく作業がいまこそ必要です

以下の園くんによる論考は、「公」とは何か?をめぐる人々の意識のせめぎあい、という視点から、この事件を読みとくひとつの「仮説」を提供して、刺激的な現代社会論になっています。じっくりと、ぜひご一読ください。


(以下、pono2-field:865から転載)
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批判の前に、考えてみたい。
「どうして『自己責任論』があんなに広まったのか?」

−−現代日本社会とひとびとの特徴からーー
  園リョータ


みなさんこんにちわ。梅雨みたいな天気ですね。

イラクで拘束されていた日本人の方たちが、先月全員開放されました。本当によかったです。
 この事件で、政府が口にしだした途端に世論にもはびこりだした「3人の自己責任」という論。その理不尽さに心を痛めた方も多いと思います。少なくとも僕はそうでした。

政府が言い出したことは、非常に政治家失格ですが言い出す理由が「責任逃れ」であることが容易にわかると思います。
ですがなぜ一般の市民までが同じようなことを言い出したのか?こんな理不尽な論理が、どうしてさも「もっともらしいもの」と少なからぬ人たちに見えてしまったのか?
この仕組みについて一考してみました。一つの意見として読んで頂けると嬉しいです。


:上からものを見るひとびと

■現代メディアと、受け手の日常生活

まず前半は、この間のメディアの報じ方を追い、街頭アクションで人々と話してみた実感からです。
その結果、「自己責任論」が論理的に正しいから広まったのではなく(当然ですが)、ある種の現代社会のものごとの伝わり方や、人々の受け止め方に原因があると感じました。

政府関係者以外の市民が「自己責任論」を認識し口にしだした流れは、だいたいこのようなものではないでしょうか。
政府が責任転換で言い出す(その背景には、「政治的判断は自分だけが担う」「市民外交軽視」という官僚的な傲慢さがある。それは戦後日本の仕組みそのものでもあり、政治家は意識転換が出来ていない。)
 ↓
ぶらさがり型の大手マスコミが政府の発言や動向をそのまま流し続ける(それも戦後日本の仕組みそのものでした。以前の社会が安定していた時代は今ほど問題化しませんでした。)
 ↓
政府発言の大量のタレ流ししか情報源を持たない人々が、それを「自分の意見や考え」に無意識にすり替えていく(ここが
一番重要です。)
 ↓
NGOのような行動者を「おかしな人たち」と自分からは切り離す。

 政府は発言のたびに、「市民の無謀な行動は控えるべき。自衛隊のような国策にまかせるべきなのだ」というメッセージを暗に出し続けています。

例:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040416-00000093-kyodo-pol
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040416-00000073-jij-pol
(本当にムカツク発言です)。

そしてこれらの発言は、NHKのニュースで、ラジオの一報で、新聞の見出しで、電車内の週刊誌の中吊り広告で、キヨスクに垂れ下がっている夕刊紙の広告で、そのままポンっと投げ出されます。垂れ流されます。売り上げのためにインパクトのあるフレーズが優先される面もあるでしょう。

日々仕事が忙しい現代人は、そういった所からしか情報を得る時間がないと思います。ある意味仕方ないし、僕も生活が忙しい時は同じです。

また娯楽情報やニュースが細分化し、何が社会の根本に関わる重大事件なのかが認識し難くなっています。ニュース番組でも、しかめっつらの国際情勢の後に、女性キャスターのにこやかな野球速報に変わります。

 現状では、情報を追い続けてこの問題が一番重要だと思う事は、市民活動に親しんでいるような人でないと難しいのではないでしょうか。


■政府の考え=私の考え

しかし、これだけでは「政府の考え=自分の意見」にまだ足りない。上の政府発言は、権力を持つ人間特有の発言だと思います。しかしそれが一般にまで広がった事実を見ると、現代の日本人には、政治的なことを考える際に自分は権力を持っていないのに権力者的な発言が馴染むようになっているのではないでしょうか。社会的地位に関係なく、特に都市住民が多いと思われます。
つまりいわゆる所得面の「勝ち組」が政府的発言に近くなるのはよくある事として、所得面の「負け組み(嫌なコトバですが)までもがネットの匿名掲示板などで政府的・裁判官的にふるまっていると思われます。

権力者的な振る舞いや発言とは、政府の判断を重視・追認し、それに理解を示すことが「フツーの良識ある判断」と捉え、そこから逸脱する市民の動きを「非常識」「変人」「邪魔」とみなすもの。今回人質となった方々への一般からの批判意見にもよく聞かれた言葉だと思います。
また、「自分は理想じゃ動かない国際情勢を踏まえているんだ」とリアリストぶったり、「〜すべきである」と高飛車なコトバ使いをします。

 自分もふだんは権力を持たない「一般市民」であり、仕事もしつつ買い物や余暇の過ごし方に精を出している。なのに政治的なものについて語りだすとなぜか権力者的になってしまう。そして、普段は消費を楽しみながら政治的・社会的なことは政府と同じく上から見下ろすという態度の方が、むしろ「まともで思慮深い判断なんだ」と思い込み、それに反して街頭などで3人の救出や自衛隊撤退を求めてアクションするような人たち(僕もそうでした)を「単純」「単細胞」「泥臭い」と捉えるのです。

そんな自分を審美眼に優れた人間だと思っている。

このように、権力者的に上からものを見る自分を「ふつうの市民」と思い込むことは、他の社会問題でも見られます。
例:小熊英二+上野陽子『癒しのナショナリズム〜草の根保守の実証研究』(新曜社)、
斎藤貴男『「非国民」のすすめ』(筑摩書房)


■経済の季節から、政治の季節へのあまりに急な変化

では、なぜこうなってしまったのでしょうか。
戦後日本から、仮説を立ててみます。
今までの戦後日本は、ある時期から大枠の政治的判断を政府(とその上のアメリカ)にまかせ、多くの国民は労働と消費に専念する役割分担が出来ていました。
だから1968年に世界第二位の経済大国となり、今ではここまで豊かな国になりました。冒頭の政府のゴーマンさはその結果です。そして政治的な行動に対して冷淡になる国民の態度も、その結果だと僕には思えます。

戦後のその間、国民や国土が今の時代のように本当の意味で危険にさらされることは少なかった。そのため今でも多くの国民には、政府の判断が自分達を裏切る時もあり、最終的には国民よりも国家体制を守るということが実感されてこなかったと思います。
だから自分たちが政府をしっかり監視・コントロールしなければいけないとは思っていない。誰もが観客、プチ評論家になっている。ここが欧米的な市民の意識との一番の違いではないでしょうか。

そして国民が、モノを買うような形での「ハイクオリティ・オブ・ライフ」に専念している間に、日本が冷戦崩壊〜湾岸戦争によって世界の激動にまきこまれたら、自分たちの手元にあった政治の語り方はマスコミがタレ流す「高飛車で上から見るような政府のコトバ」しか無かった・・・。

そうしていつのまにか「政府の考え」が「私の考え」になっていく。もちろん、本人はそのことに気づいていない。

豊かな生活のスタイルは崩さずに上からものを見るように語ることが「成熟した市民」である、という現象が生まれたのです。

だから「自力」で市民外交をやろうとした高遠さんたちも、彼らを「自力」で救おうとする私たちも、泥臭くて思慮が浅いように見えるのでしょう。「自力」で政治的なものに関わるということを、多くの人が実感できていなくて、むしろ不要で思慮浅いものに見えている。


■「自分は彼らのようなことをしたいと思わない」

さらにここには、もっと単純に、問題を3人の自己責任にすりかえることで「自分には関係ない」と思いたがる自己保身の気持ちも表れているでしょう。

この日本社会の問題として共有せず、自らを安全圏に置き、「はねっかえりの単純な人たちがやった事だから仕方ないのでは?」と情報を集める・事情を考える努力もせずにジャッジメントする。そのジャッジメントが、何もしない自分へのアリバイ作りとなっている。
しかし3人だけの問題である訳が無い。自衛隊が派兵されたから3人が狙われたのは明白であり、派兵に無言の支持を与えたのは誰だ?

この、日本人がNGOや戦地取材を「他人事」として思う現象は、雑誌『サイゾー』での対談で宮台真司・宮崎哲弥の両氏が鋭く指摘しています。
「これが復興ビジネスに参加したビジネスマンの拘束事件であれば、彼らは日本中の同情を集めただろう。『仕事中、お気の毒に』と。しかしNGOだと『自分勝手に遊びにいって』と受け取られてしまう。これは欧米の常識とは全く逆な、日本特有の市民感覚の欠如だ。会社組織のビジネスのみが『公』になってしまう。」
「バッシングには、人質との『入れ替え可能性』の問題が大きい。つまり、『私も彼らのような事をやったかもしれない』と思うことで、そこに共感や連帯が生まれる。だからパウエルや『ル・モンド』は人質を擁護した。バッシングをする大方の日本人にはその気持ちが最初から無い。」


■論争と同じくらい大事なこと

この、現代日本を覆う例えようの無い嫌な空気をつきくずすには、相手と「自己責任論」がいかにおかしいかを論争するよりも、まず相手が「自己責任」と考えるに至った前提そのものを問題にしてみるというのはどうでしょうか。

「なぜあなたはそう思うの?」「どうしてそう考えるようになったの?」「その情報はどこから得たの?」と問い続けるのです。

それをせずに論争だけをしていると、互いが互いの考えに固執したまま終わってしまう事が多いように思われます。

その上で、多くの人に政府の考えやコトバと自分の考えやコトバが無意識に一致していること、それが危険で、何よりも「ダサい」ことを伝えていく必要があると思います。

このような事態が起きた時、政府が自分達国民を裏切ることもあることを(僕を含めた)現代日本人は実体験としてあまり知らないのだから、政府を糾弾するだけでは足りないと思われます。
それだけでなく自分たちの周囲に広がる世論にも切り込み、政府発言とみんなのコトバがとても似てきている事を指摘して、「オリジナリティを持とうよ」と言ってみる。今風に「自分らしく」、ですね(笑)

私たちの現代日本社会は、自分たちが情報を得てものを思考する際の前提条件そのものを根本から問い直さなねばいけない所まで来てしまったのではないでしょうか。
自分は今フリーペーパーでの連載のために戦後史を勉強しており、(http://www.synapse-fp.jp)今回の世論を見ていて、改めて強く感じています。

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:「公」を求める気持ちが生む混乱

■「自己責任論」と「女子高生」

先月、イラクでの日本人3人の人質事件で大きな話題になった「自己責任論」。
これを考えることで、「いったい、日本社会は今、どこに立っているのか?」がきっとわかると思うのです。前回の結論は、「今の日本人は、社会のいろんな状況から、政治を語るときは政府の口真似になってしまう事が多いから」でした。それプラス、人々の「市民意識」が変わってきたのではないでしょうか。無意識を、構造化してみましょう!

「自己責任」は、「自分の判断に基づいて選択したことが招いた結果は、自分で責任を負う」ということだと思います(だから「自衛隊撤退」が3人の拘束理由になっている時点で、3人だけの責任を超えています。日本の政策責任がある)。

今回、人々の間ではそれをもう少し砕いて「自分のしたことで他人に迷惑をかけるな」「わがままや勝手を言うよりも、社会の事情を優先させよう」と言われてました。さらに「自己実現のためになんかイラクへ行くな。幼稚だ」とまで。
また家族の要求に対しては、「個人の事情より国策を優先せざるをえない時がある」と政府よりむしろ一般の人のほうが言い出して、バッシングにつながった。それを受けて家族の人が「社会にご迷惑をおかけしました」と謝罪する状況に追い込まれてしまった。小泉首相も首相で、救出後にまたイラクへ行きたいと言った高遠さんたちに「まだそんなこと言うんですかね」と言った。

こうした現象を、77年のダッカ事件(「人命は地球より重い」としてハイジャック犯の要求を飲んだこと。世論は多くが賛成した)と比較して「人命尊重の空気が変わってきたのではないか」という指摘がありました。
みなさまも、戦争が多発し軍事大国化する日本でそのように感じることが多いと思います。ですが今回は、それとは別の変化がより明確に反映されているのではないでしょうか。それは、日本の人々の「公(おおやけ)」をめぐる意識です。

上記の「わがまま」といった人質批判の言い方ややり取りは、実は、「電車内で化粧をする女子高生」や「自分たちのためだけに金を操る官僚や政治家」に向けられる批判にも、似ているなあと思ったりはしませんか? 他にも、公務員たたきや、年金未納など、「自分だけいい思いしやがって」という思いの発露は至る所に見られます。

「救出された人たちは、まだイラクへ行きたいと言っている。大勢のお陰で助かったのに、まだ自分の目的を優先させているなんてけしからん」
「電車内で化粧をする女子高生は、『自分の勝手じゃん』と言っている。電車内は他にも大勢人がいるのに、自分の目的だけを優先させるなんてけしからん」(あくまで批判が似ているというだけで、私は人質となった方々を女子高生と同列視するような意思は全くありません。上記の批判自体が的外れですし)。

そして、電車内化粧への批判には、実はこれを読んで頂いているあなたも共感しちゃったりはしませんか? 僕も少し共感します。現に、そのような指摘をする本は今腐るほどあります。
『ケータイを持ったサル』や『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』など。小林よしのり氏のあの悪名高い『戦争論』も、渋谷の街頭を歩くサラリーマンが、地べたに座る高校生やキレる少年を嘆くシーンで始まります。

そう、日本に住む現代人には、自分勝手や個人主義(に見えるもの)よりもある種の「モラル」や「公(おおやけ)」を求める気持ちが少しずつ出てきているのではないでしょうか。


■「公」を求める気持ちが生む人質批判

「公」とは、「きちんと世の中への関心を持ち、社会を自分たちで作っていきたい」「様々な人と対話をしながら自己実現したい」という気持ちだと僕は思います。そして、社会を成り立たせるための規律に信頼を置くことが「モラル」だと思います。そこから、女子高生などに対して「甘えがある」「自分勝手」と言いたくなる気持ちが表現されている。
そして現在は、人々の「公」「モラル」への志向がどこへ向かっていくかで、混乱し、政府と市民が――「愛国心を持とう」と「世界市民になろう」とが――同じような土俵の中でせめぎあっている状態ではないでしょうか。

政府は「国に迷惑をかけない公人になれ」と言うし、私やみなさまのように市民活動にかかわる人は「自分から社会や世界情勢に関わろうとする公人になろう」と言っています。欧米的に。
つまり『公人』『社会参加』の意味が両者で違っている訳ですね。政府も、私たちも、「公」という概念に拘束されながら人々に訴えかけています。その人々から見れば、両者における「公」の意味内容は違うということがわかりづらく混乱して見えているのではないでしょうか。

政府は、欧米的な「公人」の定義をわかった上で、わざとねじまげて「国家の決めた事にしっかり理解を示すのが公人」と言っています。
でもそれが一般に広がるときは、「公人」が定義されないまま何となく誤解されて変に受け取られているのではないでしょうか。その結果、政府的な「公」の定義がマスメディアの力で浸透し、「人質は自分勝手な人たちである」と今の若者を批判するような調子で見られていったのではないでしょうか。

ではなぜ、現代にモラル志向がでてきたの? それが変な形になっているのは何で? それは・・・

■今までは「公」が見えなかった

1960年。この年、日米安保条約の改定に反対する運動が日本中で盛り上がった。戦後最大の社会運動と呼ばれています。国会前に17万人が集まったり、学生数百人が国会に突入したり、今のピースウォークのような「個人が自発的に集まったデモ」があちこちで起こったり、全国いっせい行動日へ計400万人が参加したり。今振り返るとかなり感動します。
しかしそれが条約の成立で終わった直後、池田首相は、10年後には今の2倍の給料が手に入るよと国民に唄う「国民所得倍増計画」を発表し、世の中の雰囲気が変わっていきます(実際には約4倍になったのだけど)。
おおざっぱに言えば、政治の季節から経済の季節への変化です。言い換えれば、「公」や「モラル」を社会参加で「作り上げていく」季節から、一人一人がモノをたくさん買うことで「公=他者とのつながり」を「与えられていく」季節への変化ですね。
それを主導したのが、何よりも自民党の官僚出身の首相たちでした。日本を主権回復させた吉田茂の元で学んだ、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳・・。

多くの人との連帯から個人生活へ。節約からモノを買うことへ。それは、本当に日本人にとって大きな革命でした。戦前の「節約は美徳」が完全に消え、「消費は美徳」が流行語になります。もちろん、国民一人一人の生活が豊かになるのは民主主義のいい面であり、その良さもたくさんあります。
それが1960年前後以降、約30年間社会の主流になりました。「国民の9割は中流意識」と1968年に宣言されました。そして高度経済成長から大量消費社会へ、バブル経済へ・・とつかの間の繁栄を突き進んでいきます。


■現代に「公」が求められ出した背景

市民運動の世界では、60年代後半の公害や70年代のまちづくり・フェミニズム、そして80年代の環境運動と、そうした消費主義への批判はあったと思います。
ですが一般社会では、バブル崩壊後の1990年代に、それまでの反動として消費生活を「個人のわがまま」「だらしない」とマイナスにとらえる現象が出てきたのだと思います。その極端な例として、援助交際女子高生やキレる少年が「自分勝手」と批判されました。
もう経済的な繁栄の限界がはっきり見え始め、みんなどうしたらいいのかわからずイライラし始めたからだと思います。

 特に生まれた時から社会が完成されていた若者の一部は、完成されきった現代の都市社会に飽き始めています。少なくとも80年代までのようにそれを「流行」と捉えられず、誰もが「当たり前」と思っているでしょう。
 90年代に、阪神大震災のボランティアや、NPO・NGOや、果ては猿岩石のような世界放浪までに若者が多く参加したことは、都市社会では満たされなかった気持ちが表れていると思います。(それはある意味、かつての学生運動で問題にされた「疎外」がより進んだ状態かもしれない)

今の若者は、そうした状況下で育ちました。僕も、日本の過剰な近代都市と消費社会に対して息苦しさや「もうイヤだ」と感じてしまう一人でもあります。

その中で小林よしのり的な「愛国心」に惹かれていった若者は、彼の「アメリカに影響された戦後民主主義が今のだらしないわがまま個人を広めた。戦前の『節約は美徳』こそが『公』なんだ」という言い分にヤラレたのだと思います。「よし、俺も戦前世代を見習おう!」と。今の「武士道」のブームもそれで説明できるでしょう(ほんとは戦前から、日本人には欧米的な「公」なんてほとんどなかったのだが)。

あるいは今回の人質事件でも、「3人の自己実現より日本の国益」とか「自分勝手な行動が社会に迷惑をかけた」と言われたのです(ほんとは、イラクのファルージャ虐殺から人々を助けることが「自分のため」だけの訳がないのだが)。人々は、若者批判と似たような文脈で人質を批判している事が多かったです。

そうして、「今までの日本は個人主義ばかりが広まっていた。少しは社会のためになることをしなきゃ」というテーマや言葉が広まっていったのではないでしょうか。それはイラク反戦への参加者でも、「日の丸・君が代」「靖国神社」に賛成する人でも、若者なら共通しています。両者は「現代日本」というコインの裏表だと私は思います。そして人質となった方々を擁護しようとする私たちも、「自己責任」と批判する人も、もしかしたら近代都市の閉塞感の中から新たな「公」を引き出そうとしている点では深層心理が共通しているのかもしれません。
つまり、いわゆる「右派」や自己責任論者だけでなく、私たち自身もまた、現代日本が与える言葉や感性の枠組みに拘束されているのではないでしょうか。

不況で社会に不満を感じるから、「公」を求める気持ちは盛り上がってきているのに、「公」が定義されてないがゆえに大きくすれ違っている。


■「公」を自分たちでつくっていく

だとしたら、今私たちは、政府に変な形で主導されるものとは違う、戦前への回帰とも違う、新しい「公」を作り出せばいいのではないでしょうか
(そうでないと、これから政府方針とは違うアクションがどんどんできなくなるはずです)。
他者との連帯を求めて浮遊する現代人の気持ちを、表現する回路を作りだすことが、今もっとも求められているのではないでしょうか。

かつてそれは、「国民」「民族」「人間」「ふつうの市民」「連帯を求めて孤立を恐れず」「スキゾ・キッズ」「地球市民」と表現されてきました。それはそれぞれの時代に合ったから共感を呼んだ。

私たちは、今都会の道端で通り過ぎていく人たちと、どのようなつながりを作ることができるのでしょうか。それをどういう現代のことばで表現できるのでしょうか。

ピースウォーク、ティーチイン、シンポジウム、フリーペーパー作り、チラシ配り、日常での会話。手段はいくらでもある。私が上記で書いてきたのは、それをやる時にいつも意識していたいことでした。社会運動やNGOを「自己責任」「特殊な人たち」というカテゴリーから開放するために。そして人々と「公」をつくりなおすために。
「公」を求めているという一点の普遍性から、アーティストとも、いわゆる「右派」とさえも、共同できる可能性があると私は思っています。


■「公」をつくりなおし、日本の風通しをよくする

そうやって、私たち自身の手で「公」を回復させようとなった時、何が参考になるのかな。

歴史社会学者の小熊英二さんは、「今までの戦後日本は消費がいちばんの個人主義だった」
あるいは「戦後日本は戦争責任を全く問わずにずるずる来てしまった」と焦ってひとくくりにせずに、戦後を、政治が社会の主流だった時期と経済が社会の主流になった時期とで分ける必要があると主張しています。それを『民主と愛国』という枕みたいなぶあつい、でも読みやすい本で実証しています。
(http://web.sfc.keio.ac.jp/?oguma/top.html 内の、「小熊英二さん民主と愛国を語る上・下」)

高度経済成長以前の日本には、様々や思想や社会運動がありました。そこから学べることは色々あると思います(まだ僕も全然勉強中ですが)。そして高度成長後も、べ平連や大学での学生運動があった。

また、欧米の市民の人たちがどういう社会関係をつくっているかも、当然参考になりますよね。アメリカのヒップホップ少年や青年たちが同胞愛をラップする感覚も、特に若者にとっては良さそうだ。

市民が主体で「公」の意識をつくることの威力や意義に、政府はきっと気づいて恐れています。
だから人々が消費主義を見直しはじめた意識に便乗して、「これが『公』なんだ」と国策への協力を求めようとする。国策にのみ理解を示す人間を「公」のスタンダードにしようとしているわけです。
そしてもともと「公」の意識が希薄な日本の人たちに、そういう「公」の定義が浸透していく。そんなのはもうイヤだ!

もっと風通しのいい日本にするために、もうあんな「自己責任批判」を起こさせないために、多くの人に届く共通の言葉を探っていきましょう。時代をとらえて、色々やっていきましょう。
ここまで読んでいただいた方に感謝します。


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