「21世紀の助っ人?!」鈴木さんのこと
2004-02-25
「笑む」は、そのタイトルどおり
「微笑みのある健康な暮らし」を願う冊子です。
それには「病からの開放=健康回帰」がまず不可欠ですが、
同時に、ものごとの考え方、暮らし方の見直しも大切です。
末期ガンから奇跡的な回復をしたあの中野さんも、
ミネラルだけで劇的な物語の主人公になったわけではありません。
そこには、考え方、生き方の、大きなシフトチェンジもありました。
というわけで、そのひとつの大きなきっかけを作ってくれたという
鈴木公一さんのことを、ぼくはぼくなりに、少し書いてみたいと思います。
鈴木さんと初めて会ったのは、去年のことでした。
ふとしたことから知り合いに紹介され、なんとなく面白そうなので、
さっそく車で駆けつけてみたのでした。
ぼくはどちらかと言えば、奇人変人?が好きなほうで、
変わった人には、すぐ会いたくなってしまうのです<笑>。
そのとき鈴木さんは、本を出版したいと考えていました。
それならぼくでも、多少はお役に立てそうです。
というわけですぐに駆けつけて語り合い、いろんな話に花が咲きました。
そのときに思ったこと、それは
「この人は、根っからの”助っ人”なんだぁ!」ということでした。
実際、鈴木さんはいろんな形での「助っ人役」をやってきていました。
まず特筆すべきは、高校野球でとんでもない「助っ人役」を果たしたことでしょう。
鈴木さんは高校時代に野球のレベルが異常に低い高校に転校し、
その弱いチームを、なんだかんだと刺激し続け、
なんと翌年の夏の甲子園に出場させてしまったのです。
これは実に痛快な話ですので、少しこのことをお話してみましょう。
鈴木さんは高校2年の11月に、お父さんが転職してしまったため、
やむを得ず、留萌高校に転校しました。
転校して行ったその留萌高校は99・9%が大学に進学する進学校で、
そのためか、野球部はあれど「お遊び感覚の野球チーム」で、
秋の大会(新人戦)のときに、鈴木さんがいた羽幌高校と対戦して、
12対0のコールドゲームであっさり負けていました。
その試合では、鈴木さんもスリーランホームランをかっ飛ばしたのですが、
そんな野球の弱いチームに、鈴木さんは転校することになったのでした。
要するに留萌高校は、いつも一回戦で必ず負ける「一回戦ボーイ」、
しかもそのほとんどをコールドゲームで負けるという、
まさに、あきれてしまうくらいに弱い、意気地なしのチームだったのです。
だから鈴木さんは、そんな野球部には絶対に入りたくなかったそうです。
鈴木さんは留萌高校に転入試験をパスして転校したのでしたが、
そのときの成績はかなり良かったようです。
そんなこともあって、校長も、教頭も、先生も、両親も、友人たちも、
みんながみんな、勉強に専念することを勧めました。
弱い野球部に入ったところで、力など発揮できるはずもない。
だから、野球などをやって無駄な時間を過ごすより、勉強に打ち込んで、
大学進学にまい進すべきだと、みんなが鈴木さんにアドバイスしたのです。
鈴木さん自身も、最初はそう思っていたようです。
こんな弱い野球部に入って貴重な時間を浪費するよりは、
この際、野球などきっぱりとあきらめて、勉強に打ち込もうと…。
しかし、彼の体の中の「野球の虫」はやっぱりおさまらず、
また、なにしろ若さでエネルギーがあり余っていましたから、
しばらくじっと我慢はしていたものの、体がウズウズして野球の血が騒ぎ始め、
ついつい鈴木さんは野球部に入ってしまったのでした<笑>。
その当時の留萌高校は、校舎移転のためにグラウンドがなく、
しかも部員が5人しかいません。さらに道具もろくにそろってなく、
部員の意欲もなければ、周りのみんなからの期待も全くないといった具合に、
まさにないないづくしで、条件は文字通り最悪だったのでした。
負け犬根性がしみついてしまっていて、勝とうという意欲も意識も全くなく、
それどころか、コールドゲームで負けてもあっけらかんとしていて、
悔しいとか、反省して今度こそ勝とう!などといった気持ちもまるでない。
まさに箸にも棒にもかからない、どうしようもないチームだったのです<笑>。
にもかかわらず、そんな弱小野球チームが、春季全道大会の旭川地区予選で、
旭川実業を、なんと10対1の七回コールドで破ってしまったのでした。
その後も着実に勝ち進み、北北海道大会出場の切符を手にした留萌高校は、
二回戦で優勝候補の筆頭としてあげられていた強豪・稚内高校と対戦し、
接戦の末、見事、鈴木さんの犠牲フライで逃げ切りました。
そして決勝戦で旭川龍谷高校を破り、なんと甲子園進出に名乗りを上げたのでした。
夏の甲子園では猛暑のなか、開会式直後の開幕戦で、岐阜商業と対戦。
岐阜商業は優勝候補の一角だっただけに、残念ながら0対1で破れました。
が、岐阜商業はその大会でベスト8まで勝ち進んだのですから、
破れたとはいえ、信じられないくらいに善戦したといえるでしょう。
こうして鈴木さんの甲子園はあっという間に終わりましたが、
このときの体験が、その後の鈴木さんの生き方に、
大きく影響することになったのだと思います。
どうです、みなさん。ここまでだけでも、面白いでしょ!
要するに鈴木さんは、ないないづくしの最悪の環境からでも、
ちゃーんと夢が実現できるということを、高校時代にすでに示してくれたのです。
しかし、「それには条件が必要」と、鈴木さんは言います。
その条件とは、まず「自分が変わる」ことであり、
周りのみんなにも、どんどん影響を与えていくことです。
留萌高校の野球部の場合は、「負けて当たり前」という意識が、
「勝てるぞ!」「勝つぞ!」という意識に変わったところから、
驚くべき変化が起こり始めました。
自然界では、水が沸騰して水蒸気になったり、
水が冷えて氷に変化するなどといった「変化の現象」が起こりますが、
そこにはすべて「変化の臨界点」というものがあり、
どんなものでも、臨界点にまで達しさえすれば、
変化や進化は勝手に起こってしまうものなのです。
ですから、なによりも大事なことは、
「だれでも、どんなものでも変わりうる」ということを、はっきりと知ること。
「変わるわけがない」「変わるはずがない」というあきらめとは、
きっぱりサヨナラしてほしいと、鈴木さんは言います。
さて、高校野球で「甲子園出場の助っ人役」を果たした鈴木さんは、
その後も「助っ人の醍醐味」を楽しんできました。
大学を卒業して、アメリカのユタ州立大学に留学して帰ってきたあと、
鈴木さんは札幌で「学習塾」を始めたのです。
学習塾とはいうまでもなく、子どもたちの学力を向上させることが仕事です。
鈴木さんがが学習塾をやってみようと思ったのは、
いわゆる「頭の悪い子」の能力を、目一杯引き出してみたいという誘惑?
にかられたからとのことでした。
というのも、その当時は受験競争が過熱気味で、
その過程で当然のことながら、落ちこぼれも続出していました。
そこで鈴木さんは、激しい競争についていけない子どもたちばかりを集めて、
一般の学習塾とは全く違ったやり方で、
彼らの能力を引き出してみたいと思うようになったのです。
学習塾を経営する以上は、頭の良い子たちも集めて、学習指導をして、
「○○校に○名入学!」と宣伝したほうが都合がいいのはいうまでもありません。
しかし鈴木さんは、基本的に「頭のいい子」は引き受けませんでした。
そういった子どもたちは、あえて塾に通う必要がないからです。
こうして「変な学習塾」を始めた鈴木さんは、
子どもたちに試験のテクニックを教えるというよりも、
潜在的な能力の開発に力を注ぎ、
ほかの塾とは全く違った方法で、子どもたちと接していきました。
そしてこのケースでも、なによりも大事にしたことは、
「変わるはずがない」と思い込んでいる子どもたちに、
「変わりうるんだ!」という意識を開かせ、
そこから自分の力を信じて、自分の足で前に進ませていくことでした。
「鈴木さんの学習塾物語」のことを書き始めると、
それだけで一冊の本になってしまいそうですので、これくらいにしますが、
結果は、鈴木さんがの予想したとおり、まさに上々でした。
落ちこぼれていた子や、目立たない普通の成績の子どもたちが、
やがて学年トップに躍り出たり、試験の難しい有名校に続々と入学していったのです。
地元では最難関の北海道大学はいうまでもなく、東京大学に入った子もいます。
普通の学習塾なら、それも当然のことでしょう。
しかし鈴木さんの塾に通っていたかつての子どもたちにとっては、
北大や東大に入るなど、夢の、また夢の、またまた夢の出来事であって、
その意味では「信じられないこと」が次々と実現していったのでした。
が、鈴木さんからすれば、それは「当たり前」のことであり、
別に不思議でも何でもなかったのです。
高校野球、学習塾と、助っ人役を楽しんできた鈴木さんは、
長い間若い子供たちの能力を引き出すことの楽しさとやりがいに夢中で、
世の中のことからは、どこか遠ざかっていました。
しかし「たくぎん」が破綻してからは、
徐々に世の中の動きにも関心をもたざるをえなくなりました。
子どもたちの親の意識が少しずつ変わり始め、
ビジネスの世界の厳しい現実が、鈴木さんにも伝わり始めてきたからです。
そんななか、鈴木さんは、これまでとは全く違った新たな分野で、
新しい「助っ人人生」を再出発してみたいと思うようになったのだそうです。
助っ人は、強く望まれてこそ、すごい力を発揮することができます。
望まれてもいないのに助っ人を申し出ることは、単なるお節介にすぎません。
かつてバースが阪神で、あれだけ助っ人として大活躍できたのも、
阪神フアンがバースに熱い期待を寄せてくれたからのことでした。
そして去年の阪神では、星野監督が「偉大な助っ人役」を発揮しています。
助っ人というのは、だれかから熱く、強烈に期待されてこそ、
その力をフルに発揮することができるのです。
そこで、鈴木さんは考えました。
「いま、いったいどんな分野で、助っ人が求められているのだろうか」と…。
そして単純に思ったのは、ビジネスの世界のことでした。
ビジネスというよりは、率直に「お金」といったほうがいいかもしれません。
いま世の中には、お金に困っている人がいっぱいいます。
必死で仕事を探している人も、リストラが心配でストレスに悩まされている人も、
また会社の業績や経営に頭を悩ませている経営者も、
結局はそこに深刻な「お金の問題」があるからでしょう。
つまり、ビジネスやお金の問題に関して、
いまこそ強力な助っ人が強く求められているのではないか。
鈴木さんは、だんだんそう思うようになっていったのでした。
鈴木さんの役割は、あくまでも助っ人です。
しかし、助っ人が助っ人として認められるためには、
自らがビジネスの成功モデルとならなければなりません。
実績もないのに助っ人を名乗っては、詐欺同然になってしまうからです<笑>。
自らがビジネスでの成功モデルとなるためには、いったいどうしたらいいか。
いろいろ考えた末に、鈴木さんはインターネットをフルに利用することにしました。
急速に広がっているインターネットの情報環境を無視しては、
ダイナミックで劇的な効率も効果も得られません。
そのときの鈴木さんには、インターネットそのものが、
新しいビジネスの強力な助っ人として映っていたのでした。
こうして2001年11月からビジネスの世界に足を踏み入れた鈴木さんは、
その後の1年半ほどで、一つの成功モデルを作り出すことができました。
それが「成功塾」だったのでした。
「成功塾」でやっていることは、考え方を切り替えることです。
これは、高校野球や学習塾でやってきたことと、全く同じです。
考え方を根本的に切り替えて、ある法則を活用して行動しさえすれば、
ないないづくしのところから出発しても、必ず成功することができる。
それを鈴木さんはビジネスの世界でトライして、実証することができたのでした。
それまでの鈴木さんは、ビジネスの世界とは全く無縁でした。
「ビジネスのいろは」さえ知らなかったそんな鈴木さんではありながら、
しかしわずか一年足らずで、大企業の役員以上の収入を得ていました。
決して特別なことをやったわけではなかったのです。
ごく普通に、ごく当たり前のことをやってみたにすぎません。
なのに、鈴木さんはひとつの成功モデルを作り出すことができたのです。
インターネットでビジネスにトライしたこともあって、
インターネットの世界で鈴木さんにはさまざまな出会いが生まれました。
これを読まれるみなさんも、あるいはその「出会いの結実」かもしれません。
そしてぼくもまた、ひょんなことから鈴木さんと出会ったのです。
(つづく)
その他... |